Two of us against the Shadow 前篇




その力強い流れに逆らい、追手を逃れてアンドゥインを泳いで渡る、無限にも感じられた間、ボロミアは姿を見失った弟の無事ばかりを考えていた。
ふたりの若き大将を守る為に、東岸に踏みとどまって斃れた部下達、不幸にも大河を渡り切ることができず溺れていった部下達のことを思えなければやはり自分は白の塔の大将として失格であろうか?


敵の奇襲を辛くも逃れ、西岸に辿りついたのはボロミア、弟のファラミアを入れて僅かに4名であった。
ボロミアは野営の焚火の炎を見るともなく眺めながら苦い物思いにふけった。
ここまでの無力感、徒労感に襲われたのはボロミアが戦に赴くようになって初めてであった、このような不利な形勢が昨日今日に始まったものでは無いとはいえ。

ボロミアの視線は揺れる炎にちらちらと照らされている弟の寝顔に止まった。
ボロミアより消耗のはげしかったファラミアは、兄の外套を掛けられて火の側に眠っている。漸く乾きかけた金の巻き毛、白く高い頬が光を反射している。
ボロミアはもしも今日弟を失っていたらという思いに捕らわれて鼻の奥が熱くなるのを感じた。
その時、ファラミアの眉が苦しげにひそめられるのを見てボロミアは思わず身体を乗り出した。
寒さが堪えて熱でも出てきたのではないかとさらに顔を近づけた瞬間、ファラミアの口が僅かに開いて途切れ途切れに言葉を紡いだ。

『折れたる・・・剣を・・・イムラ、ドリ、ス、に・・・・・あ、兄上』

ファラミアは夢うつつの中、近づく兄の気配を察してかすかに目を開いた。

『ファ、ファラミア、どうした!』

ボロミアはファラミアのただならぬ様子にその肩をつかんで揺すった。
悪夢にうなされるというよりは、何かに取り憑かれたように見えた。

するとファラミアははっと気付いたように目を見開き、兄を押しのけるように起き上がった。

『兄上』

そう言いながら、すぐ近くのボロミアの顔をまっすぐに見つめるファラミアの目は既に平素の冷静さを取り戻していた。

『兄上、私は』

ファラミアはボロミアの、籠手を着けたままの腕に手を添えながら言った。

『大変なお告げを聞いてしまったように思います』

『夢のお告げと?』

ボロミアはファラミアの心性をよく知っていた。
迷妄に堕することの無い知性を持ちながら、伝承や伝統を嘲笑うことのない謙虚さを。

ファラミアは自分の話していることの荒唐無稽さを、剛直な兄に恥じるように、軽く目を伏せながら答えた。

『はい・・・折れたる剣のことは、兄上もお聞き及びでしょう・・・』

『大いなる戦、のか?』

『そうだと、思うのです、我らがゴンドールの危機にこそ』

とうに絶えたと思われている遠き日の貴き王家のことなどは、当然の為政者として育てられてきたふたりにとっては夢の世の出来事のようであった。
そしてその時のファラミアには、その伝説の剣を振るう男は兄をおいて他に無いと思われた。

弟の目の中、不安ながらに輝く光を見てボロミアは言った。

『ファラミア、今夜はもう眠ると良い、夢のお告げはまた明日でも遅くはあるまい』

ファラミアは、自分に向かう兄の優しい顔が大好きだった。
戦場で見せるためらいのなさとはかけ離れた、少し逡巡するような様子が大好きであった。
いつ何時も、兄を守らねばと思うのはそんな時だった。

『はい、兄上もどうかお休みください』

ファラミアは、眠れる気の全くしない目を素直に閉じた。




ふたりの父、執政デネソールは帰還した息子の敗走を形式上たしなめたが、ボロミアの無事帰還を何よりも喜んでいた様子は側近にも見て取れる程であった。

謁見のあいだ、兄の後ろに控えていたファラミアは、兄が先に退出するまで一言も許されなかった。
それはいつものこと、丁重ながら小賢しく父に挑んでくるファラミアを必死で庇うボロミアに、デネソールが不条理な嫉妬を感じるからであった。

『かの晩の夢のことは父上に申すな』

ボロミアはすれ違いざまにファラミアに囁いた。

父に愛される自分と愛されない弟。
それでも真っ直ぐに自分を慕うファラミアが不憫でならない。
不憫というよりは負い目なのかもしれなかった。
しかしボロミアは天性の慈愛の深さでファラミアを包み、ファラミアも兄に妬みを抱くことは一度たりともなかったのだった。

その日も、夢のことなど申し上げる暇もないほどに父に部下の損失を責められながら、ファラミアはただ兄の優しさを思った。
兄の胸の温かさだけを思った。




アンドゥイン西岸の夜営からこのかた、ファラミアは毎夜同じ夢を見ていた。

―――折れたる剣をもとめよ、そはイムラドリスにあり。
・・・滅びの日、近くにありせば。
・・・イシルドゥアの禍目覚めたれば。

ただ、その夢はいつも断片的で、示す内容はファラミアの博識を持ってしても未だ謎のままであった。
その謎を解いてくれるかも知れぬ唯一の知性、ミスランディアは長いこと都を訪れていない。
希望の予兆か、本当に禍の予兆かもわからぬまま、ファラミアは兄にのみその夢を語った。

ある日ファラミアは意を決して兄に頼んだ。

『兄上、今晩兄上の部屋に眠ってもよろしいでしょうか』

ボロミアは鷹揚に笑った。

『ファラミア、あの夜以来夢に休息を盗られているのではあるまいな?』

『兄上に、私の例の夢の中身を聴き取っていただきたいのです』

『構わん、そうしようファラミア、お前が独りで眠れなかった幼い日のようにな』

むしろ嬉しそうな兄の言葉に、恥じ入るようにファラミアは顔を逸らした。

『やめてください、兄上』

兄弟でありながらファラミアが躊躇うにはもっと理由があった。
ファラミアは、兄の隣で安らかに眠る自信がなかったのだ。

自らの、兄に対する特別な思い、兄弟に対するそれを超えた思いに気付いたのはいつだったか。
戦場に赴いて留守の兄の部屋、兄の寝台に忍んで彼の匂いを求めながら眠った頃だっただろうか。
責任と威厳こそ全てのこの冷たい館の中で、母もなく父に疎まれながらも生きていられるのは、兄をこの上なく愛しているからだとファラミアは知っていた。

その兄とひとつの寝室で、禁忌の想いを悟られずに夜を過すことができるだろうか。




『兄上、よろしいでしょうか』

夜も更けてから、ファラミアは兄の寝室の戸を叩いた。

ボロミアが戸を開けると、ファラミアは夜着の前に腕を組むように、厚い本を抱えて立っていた。

『久しぶりの兄との語らいの夜にも書物か?折角だ、葡萄酒を開けよう』

ファラミアが本を携えて来たのは他でもない、兄への意識を逸らすためであることなどボロミアは知る由もなかった。

ボロミアは夢解きという目的すらも忘れたかのように、上機嫌であった。
部屋の奥の棚からいそいそと葡萄酒の濃緑色の瓶を持ち出してくる。
中に揺れる芳醇な赤色の液体を灯りに透かすようにする。

『2983年のイシリエンの産だ。お前の生まれ年だな。良い年だとバラノールも言っていた・・・その年にはまだイシリエンも心安き我らが領土であった』

じわじわと確実に、敵に侵食されつつある美しい土地を思ってボロミアは顔を曇らせた。

だが、葡萄酒も兄の憂国も、ファラミアにはどこか遠くのことのように思えていた。
灯に照らされ、瓶の色硝子が翳を落とす兄の気高く美しい横顔に見惚れて、ファラミアは本を胸に抱いたまま不適切に高鳴る鼓動を必死に鎮めた。

『どうした、ファラミア、兄の前で緊張するなどお前らしくもない』

ボロミアは細工の入った赤銅の盃を弟に差し出した。


『ゴンドールに』
『白き塔の未来に』
ふたりは盃をあわせた。

その乾杯の言葉が、今迫らんとする危機のうちに絵空事になろうとしていることを二人は心の底で感じていた。
しかしそれを口にすることは為政者の家に在る男として禁忌であることも充分すぎるほど了解している。
同じ思いを胸に、ふたりは揃って盃を干した。


葡萄酒にほんの少し上気したボロミアは、何故かしきりにファラミアの少年時のことを語りたがった。
酒が顔に出ず、饒舌にもなれないファラミアは兄を制止しながらも、少しずつ心がほぐれてゆくのを感じた。

『あの頃のお前は私の戦に付いてゆくと言って聞かなかったな。「兄上をお守りいたします」が口癖だった・・・私の胸までの背丈しか無かったのに』

―――今でも同じ気持ちです。

ファラミアの心の中の叫びは、酒の力を借りても言葉にならなかった。
ただ微笑みながら兄の言葉を聞く。
緊迫した戦場の日々にあって、兄とふたりきりのこの夜はファラミアにとって泣きたくなるほど幸せで、それでいて心苦しかった。


『今宵は、お前の夢を聞き書きしなければならんな。なにかゴンドールを救う手掛かりが有れば良いがな、ファラミア』

ボロミアは僅かに残る葡萄酒の瓶に栓をした。

『ファラミア、添い寝が要るか?』

ボロミアはふざけて言った。

『・・・とんでもない!』

ファラミアは色を失って叫んだ。
兄上は何も知らずに危ないことをいう。いや、危ないのは私の想いだけだ。

『そんなに怒るな、昔からファラミアは子供扱いが大嫌いだった』

ボロミアはまた笑って、侍女が畳んで揃えてあった夜着に手を伸ばした。
金糸の刺繍の入った別珍の上着を一気に脱ぐ。

ファラミアの視線は腕を高く上げたボロミアの彫刻のような隙の無い身体と、肩に散らばる癖のない髪に釘付けになった。
ボロミアが麻の夜着を着込んでからも、ファラミアの目には兄の身体の線が克明に見えるようで、頬に上がったままののぼせが去って行かない。

『ファラミア、お前も休め』

ボロミアは既に弟の為の寝台を用意させてあった。

『ありがとうございます』

ファラミアはぎこちない仕種で兄の隣にしつらえられた寝台に腰掛けた。

『今晩はよく眠れそうです』

ファラミアは心にもないことを言い、微笑みながら、身を横たえた。

目を閉じると、ボロミアが勢いよく掛け布を外して床に入る気配がする。
我が身の高鳴る心臓の音がボロミアに聞こえるのではないかとファラミアは不安になるほどだった。

しばらくそうして心を鎮めていると、ほどなくボロミアの規則正しい寝息が聞こえてきた。

(兄上・・・私の夢を聞くために起きていると言ったのに、飲みすぎて先にお眠りだ)

ファラミアは目を開けて兄の寝顔を見た。

(まあ、良いか。兄上とふたりきりで酒を飲んだのも久しぶりだ)

心のうちの苦しい思いは別として、それを兄に気取られずに済んだだけでもファラミアは少し安堵した。
灯火を自分の方に引き寄せて、ファラミアは持ってきた本を開いた。

縁の汚れた羊皮紙を2、3枚めくった頃だろうか。
ファラミアはボロミアの動く気配で我に返った。
横を見ると、ボロミアが苦しげに寝返りしている。

『あ、兄上・・・?』

がば、と起き上がり、ランプを動かして翳になった兄の顔にひかりを当てた。

きつく顰められた秀麗な眉の下、ボロミアの口が何かを伝えようとするかのように開く。
ファラミアは寝台を飛び出して兄の枕元に駆け寄り、跪いた。


(後篇にツヅク)



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